秘密裏に決まった新元号「令和」は中国古典の孫引きか:「典拠は万葉集」に異論相次ぐ

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政府が2019年4月1日に発表した5月施行予定の新元号「令和」について、「典拠は万葉集」である「初の国書由来の元号」という発表に異論が相次いでいる。

岩波文庫編集部はTwitterで、岩波書店発行の新古典文学大系『萬葉集(一)』の補注に「「令月」は仲春令月、時和し気清らかなり(後漢・張衡「帰田賦」・文選十五)とある。」と記載されていることを指摘した。

政府・報道発表

東京新聞によると今回の元号制定にあたっては、「国文学、漢文学、日本史学、東洋史学の四分野の中から専門家数人を選び、三月十四日に正式に新元号の考案を委嘱した」そうだ。

菅義偉(すがよしひで)官房長官が記者会見で公表した。出典について「『万葉集』巻五、梅花(うめのはな)の歌三十二首の序文」と説明した。「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かおら)す」から引用した。春の月の美しさと空気の爽やかさを表現した文章。

続いて安倍晋三首相が記者会見し、「令和」について「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められている」と説明した。出典の万葉集は「わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する」と述べた。

新元号「令和(れいわ)」 出典は万葉集 5月1日施行 (東京新聞 TOKYO Web)

万葉集の和歌は万葉仮名で書かれているが、この部分は漢文。書き下し方や訳が微妙に異なる。朝日新聞が1日付夕刊で報じたところによると、「令和」の典拠は次の通りだ。

出典:
『万葉集』巻五、梅花(うめのはな)の歌三十二首并(あわ)せて序(じょ)

引用文:
初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

書き下し文:
初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす

現代語訳(中西進『万葉集』):
時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている。

2019年4月1日付朝日新聞夕刊1面(4版)

現代の日本で花といえば桜を指すが、この頃の中国やヤマトでは通常梅を指す。なるほど日本列島で編まれた書物から取りつつも中国の古典から取ってきた伝統を感じさせられる向きもある。

だが、冒頭で触れた通り岩波書店の新古典文学大系『萬葉集(一)』の補注では張衡の漢詩「帰田賦」を踏まえたものだとされている。

ちょうど図書館に用事があったので、万葉集の該当部分がどのように解説され訳されているのか見てみることにした。

万葉集の該当部分

参照したのは、日本古典文學大系5 『萬葉集(二)』(岩波書店)、新日本古典文学大系1 『萬葉集(一)』(岩波書店)、日本古典文学全集『萬葉集(二)』(小学館)、『万葉集』(岩波文庫)の4つ。他にも注釈本が出ているが、専門家ではないのでたまたま目に入ったこの4つで勘弁していただきたい。

日本古典文學大系5 『萬葉集(二)』(岩波書店)

梅花(ばいくわ)の歌三十二首 序を幷(あは)せたり

書き下し文:
天平二年正月十三日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴會を申(ひら)きき。時に、初春の令月にして、氣淑(よ)く風和(やは)らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(かう)を薫(くん)ず。

注釈:
(四)この序の作者については、大伴旅人説・山上憶良説・某官人説などがある。序の文章構成は王羲之の蘭亭集序のほかに漢詩の詩序をもまねている
(七)令月はよい月。初春正月をほめていう。
(八)【氣淑く風和らぎ】気はこころよく、風はやわらいでの意。淑気和風に同じ。
(九)【梅は鏡前の粉を披き】梅は鏡の前の白粉(おしろい)のように白く咲いている。この出典を代匠記は宋書の宗武帝女寿陽公主の梅化粧の記事によるとしている。しかしこの梅花の粧の出典では、この場合は適当でない。「鏡前之粉」は、鏡前飄(二)落粉(一)、琴上響(二)余声(一)」(梁何遜、詠(二)春風(一)の如く、佳人の鏡前の白粉を意味し、ここでは梅の白さを鏡前の白さにたとえた情景である。梁簡文帝の梅花賦「争(二)楼上之落粉(一)」や陳後主の「払(レ)妝疑(二)粉散(一)」もその例。漢詩の表現をまねたもので、確実な出典はない。
(十)【蘭は珮後の香を薫ず】蘭は簔(ふくろ)の中の香のように珮は佩に同じく装飾として腰に吊したもの。屈平の難騒経の「紐(二)秋蘭(一)以為(レ)佩」による。

高木市之助・五味智英・大野晋(校注)『萬葉集(二)』(pp. 72-73.)、日本古典文學大系5、岩波書店

新日本古典文学大系1 『萬葉集(一)』(岩波書店)

梅花(ばいくわ)の歌三十二首 序を幷(あは)せたり

書き下し文:
天平二年正月十三日、帥老(そちろう)の宅(いへ)に萃(あつ)まり、宴会(えんくわい)を申(の)ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)、気淑(うるは)しく風和(やは)らぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)に披(ひら)き、蘭は佩後(はいご)の香(かをり)を薫(かを)る。

現代語訳:
天平二年(730)正月十三日、帥老の宅に集まって宴会を開く。あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ。梅は鏡台の前のお白粉のような色に花開き、蘭草は腰につける匂袋ののあとに従う香に薫っている。

注釈:
序の冒頭の文、「これは羲之が蘭亭記の開端に、永和九年歳在(二)癸丑(一)、暮春之初会(二)于会稽山之陰蘭亭、脩(二)禊事(一)也。この筆法にはらへりとみゆ(代匠記(初稿本))と指摘されている。「帥老」は当時六十六歳であった太宰帥大伴旅人の自称。旅人自身が、序を作り、歌を配列したものであろう。[…]「令月は仲春令月、時和し気清らかなり(後漢・張衡「帰田賦」・文選十五)とある。梅花の白さを白粉に譬えることと、「粧を払ひて粉の散るかと疑ふ」(陳・後主「梅花落」)などの例が見え、梅と蘭とを対句に用いた例としては「蘭葉始めて地に満ち、梅花已に枝より落つ」(「春歌」・玉台新詠十)などがある。キク科とラン科とに同名異種の「蘭」があるが、初春に葉を出すのは蘭草、秋蘭ともよばれるキク科のフジバカマ。葉に芳香がある。

佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之(校注)『萬葉集(一)』 (pp. 464-465, p. 529.)、新日本古典文学大系1 、岩波書店。

日本古典文学全集『萬葉集(二)』(小学館)

梅花(ばいくわ)の歌三十二首 幷(あは)せて序

書き下し文:
天平二年正月十三日に、帥老(そちのおきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭は珮後(ばいご)の香(かう)を薫(かを)らす。

現代語訳:
天平二年正月十三日、太宰帥(だざいのそち)旅人卿の邸宅に集まって宴会をくりひろげる。
折しも、初春正月の良い月で、気は良く風は穏やかである。梅は鏡台の前の白粉(おしろい)のように白く咲き、蘭は匂い袋のように香っている。

注釈:
(二)この序の作者について、大伴旅人・山上憶良・太宰府の某官人など諸説があるが、まず旅人自身とみることには無理があろう。この序は王羲之の「蘭亭集序」や王勃・駱賓王などの初唐詩序の構成や語句などを学んだ点が多い。[…]
(三)【正月十三日】太陽暦に直して二月八日。
(四)【帥老】旅人。この時六十六歳。「帥」は太宰帥。「老」は尊称。この語の使用から、この序は旅人でないことが知られる。しかし[…]この序は旅人の作として【吉田】宜に送られたようである。
(五)【申ぶ】のべる、開くの意。
(六)【令月】よい月。ここは正月をほめていった。
(七)【気】あたりの気配。この前後、「蘭亭集序」の「是日也、天朗気清、恵風和暢」を参考にする。
(八)【鏡前】梅の花の白さを女性の鏡の前の白粉にたとえた。
(九)「蘭」はよい香りの草の総称。「珮」は麝香(じゃこう)や香木の類を袋に入れて腰に下げたもの。「後」は対句として用いた字で、意味は軽い。

小島憲之・木下正俊・佐竹昭広(校注・訳)『萬葉集(二)』 (pp. 66-67.)、日本古典文学全集、小学館。

岩波文庫『万葉集(二)』(岩波書店)

梅花(ばいくわ)の歌三十二首 序を幷(あは)せたり

書き下し文:
天平二年正月十三日、帥老(そちろう)の宅(いへ)に萃(あつ)まり、宴会(えんくわい)を申(の)ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)、気淑(うるは)しく風和(やは)らぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)に披(ひら)き、蘭は佩後(はいご)の香(かをり)を薫(かを)る。

現代語訳:
天平二年(730)正月十三日、帥老の宅に集まって宴会を開く。あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ。梅は鏡台の前の白粉のような色に花開き、蘭草は腰につける匂袋ののあとにただよう香に薫っている。

注釈:
「帥老」の「老」は敬称とされることが多いが、自称にも用いる。ここは、当時六十六歳であった太宰帥大伴旅人の謙称か。旅人自身が、序を作り、歌を配列したのであろう。[…]梅花の白さを白粉に譬えること、梅と蘭とを対句に用いること、ともに詩に例がある。ラン科にも「蘭」があるが、初春に葉を出すのはキク科の「蘭」のフジバカマ。葉に芳香がある。

佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之(校注)『万葉集(二)』 (pp. 68-69.)、岩波文庫。

明らかな「引用」あるいは「オマージュ」

日本列島に住む民族の歴史を振り返ると、漢委奴国王の金印を引くまでもなく中国・朝鮮など大陸の影響を大きく受けてきた。中でも漢文・漢詩は教養人の証。書き物や和歌に中国の古典を引用することなどよくあることで、知識をひけらかしたかったのでは?と首を傾げてしまうほどだ。上に引用した箇所を見ても、何と漢詩の引用の多いことか!

それにしても、解釈だけでなく作者についても色々な説があるのだなぁ…。「帥老」が尊称か譲称かでも割れているとは思わなかった。そのあたりのことは国文科のひとや日本語文学者に訊いてください。

長々と史料を引用して何が言いたいかというと、全集の注釈を見れば漢詩の引用あるいはオマージュだと分かるだろうということ。少なくとも有識者ならばそのくらいはするだろう。知らないはずがない。指導教員に「これの出典わかる?」と訊かれて「わかりません」と応えれば、「じゃあ来週までに調べてきて」と言われるくらいのレベルではある。国書を参照したということにしておいて実際の典拠は伝統的である漢詩にしておこうとでも思ったのだろうかと首を傾げたくなるほどだ。

元号の歴史に詳しい京都産業大名誉教授の所功さんが朝日新聞のインタビューに対して、

初の国書由来の元号になるなら、来年、編纂(へんさん)1300年を迎える日本書紀かと思っていた。日本の和歌集で最古の万葉集を典拠としたのは、意外だったが、「英断」だと思う。日本の文化と言えば、やっぱり倭歌(やまとうた)とも称される和歌。和歌の会の漢文で書かれた「序文」からとったことは、より妥当だったと思う。

令和の典拠に万葉集「意外だった」 元号に詳しい識者は(朝日新聞デジタル)

と応じているのは本当によく分からなかった。

現代の科学論文なら普通は出典を明らかにしたうえで引用であることを明示する必要がある。でも実際問題、知識人が有名な文句を引用したりオマージュするのはよくあることだ。活版印刷技術も木版印刷もない時代のひとに剽窃だとか何とか言っても仕方がない。知っているひとは知っている。知らないひとは勉強が足りない。そういう世界なのだから。

そもそも「令和」の意味は…?

「れいわ」という音を聴いて浮かんだのは「霊」の文字。正直言って、あまり好きな音じゃない。音の響きは横に置いておいて、「令和」という文字列について考えてみる。

「令」を漢和辞典(新漢語林;電子辞書版)で引くとは名詞にかかる形容詞として使うなら「よい」(e.g. 社長令嬢)だけど、「A(動作主)が B(被動者)をして Vせしむ」という助動詞的な用法がある。或いは単純に「命じる」か。

「和」を「なごやか」「おだやか」という形容詞として捉えると文法的に破綻するので、動詞と捉えて「和らげさせる」か、「応じさせる」(有名な「歌ふこと数闋、美人之(これ)に和す」の「和」)。或いは名詞的動詞と捉えて「和(の状態に)させる」くらいが適当だろう。

プラスの意味にもマイナスの意味にも取れる。新漢語林の「令」の解字の欄には、「人がひざまずいて神意をきくさま」というのがあるのでマイナスのイメージが強い印象。

「日本年号史大事典」(雄山閣)によると、幕末に元号が「元治」に決まる際、令の字を含む「令徳」も候補になった。だが、「徳川に命令する」という意味が込められていると幕府内から反発があり、使われなかったという。

初の「令」、幕末には「徳川に命令」で不使用に(読売新聞オンライン)

読売新聞のこの記事の「令徳」を踏まえて「命令する」の意で取ると、「和=倭=日本に命令する」となるけれども、それは流石にないと信じたい。

これからの元号・暦法の在り方を議論しよう

西国の下級武士を中心とした勢力が江戸幕府を倒して明治政府を立ち上げてから、一世一元の制が取られてきた。大日本帝国憲法下の政府と日本国憲法下の政府は連続体なのかという議論もあるが、日本国憲法が大日本帝国憲法の改正として成立したことを考えると連続体であると言っていいのかもしれない。

一世一元の制は明治政府より前の日本にはなかった「作られた伝統」なのだけど、第二次大戦を経たあとの新憲法下でもまともに議論されなかった。1979年に元号法を制定したことでこの「伝統」を追認することになる。(同じことは国旗国家法にも言える)

第1項:元号は、政令で定める。
第2項:元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。

紀元前から歴代王朝で元号を使っていた中国は辛亥革命で、10世紀から使っていたベトナムは1945年でそれぞれ途絶えているのだそうだ。これからの日本(ここでの「日本」は日本国憲法下の政府を指す)はどうあるべきか。江戸時代以前のように天変地異の度に穢れを忌み嫌って改めるのがいいのか、明治政府の作った天皇の即位〜崩御(今回は「特例の」譲位)の時間軸を表す単位として使い続けるのか、それとも一定の時間軸に沿った西暦(現在はグレゴリオ暦)のような暦法を取るのがいいのか。

イギリス公使館を襲撃したような野蛮な下級武士たちの作った政府に押しつけられたものを一旦取っ払って、主権者である僕ら国民が考えていく必要がある。

今回の改元は主権者である国民の手を離れて、どこの誰だかわからない人間が勝手に決めてしまった。しかも孫引きというオチまでついて、もう厭になる。

主権者国民の手に取り戻そう

男は坊主頭だとか、地毛が明るいなら黒染めしろというような意味不明な日本人像を作り上げた奴らがいる。そういう奴らと僕らは戦ってきた。いや、今も戦っていると言った方がいいかもしれない。

自由、平等、博愛、平和。

それは夢物語かもしれないけれど、それを実現するために頑張ろうと、自分の子や孫に少しでも良い暮らしをさせてあげようと、第二次大戦を生き延びたひとは考えていたはずだ。

彼らの理想論を受け継ぐか、それとも明治政府の決めたことに従うか。江戸以前の文化に遡ってもいいだろうし、或いは全く新しい国家像を作ったっていい。

国旗も国歌も暦法も主権者である国民の手にある。そう日本国憲法は保障している。

「元号?そんなの要らないよ」と言ってもいい、「いや、日本には元号が必要だ」と言ったっていい。天皇や皇室に対する考え方だって自由だ。

「伝統を守る」のと「伝統を崇める」のは違う。伝統なるものにしがみついて雁字搦めになるのと、自称進歩的な全体主義国家で飼い殺されるのと何が違うのか。

伝統に学びつつも、立ち止まって咀嚼して、何を捨て何を後世に残したいか考える。それが「保守的」な態度じゃないのかと僕は思う。

これからの時代を作るのは誰でもない僕らだ。これは誰でもなく僕ら自身の問題なんだ。

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