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Twitterの「規制強化」から非実在青少年問題を振り返る:表現の自由、内心の自由、そして「メディアコントロール」

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Twitter社が「児童の性的搾取」についての新しいサイトポリシーを発表したことが波紋を呼んでいる。「児童の性的搾取に該当するコンテンツやそれを助長する好意を一切禁止する」というものだ。

Twitterでは、児童の性的搾取についての意図、表示、共有、またはリンクの有無にかかわらず、描写された未成年者の再犠牲者化につながるメディアは禁じられています。児童の性的搾取を助長または賛美し、児童の犠牲につながりうるコンテンツも同様です。

児童の性的搾取に関するポリシー(Twitter)

「未成年者」とは「18歳未満の者を指す」としたうえで、「性的に露骨な、または性的な暗示を含む行為をする未成年の視覚的な描写」「性的に露骨な状況または性的に露骨な行為をする未成年者のイラスト、コンピューターなどで作成した写実的な描写」「児童の性的搾取に該当する内容を掲載する、第三者のウェブサイトへのリンク」といったものを禁じている。

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イラスト=非実在青少年を制限

実在する未成年者について「性的に露骨な画像を児童に送る」「未成年者と性的に露骨な会話をする」といった法令に触れるようなことは当然制限されるとして、「未成年者のイラスト、コンピューターなどで作成した写実的な描写」が制限されたことで、成人向けの漫画・アニメ作品の投稿やそういったものを掲載するウェブサイトへのリンクが禁止となった。

この「未成年者のイラスト」という表現が非常に厄介で、日本でかつて議論された「非実在青少年問題」の再来と言えるのではないかと思う向きもある。2次元のキャラクターであっても、「未成年」に見えれば「児童の性的搾取」と捉えられる。その非常に主観的な捉え方が「表現の自由」を奪うことに繋がらないかという懸念は根強い。

18歳以上の「童顔」はどうするのか

18歳以上の「童顔」の人物やキャラクター(いわゆる「合法ロリ」)はどう判断されるのだろうか。日本人は欧米人からは幼く見えるという話をよく聞くし、童顔で年齢不詳としか思えない人物もいる。友人が自分より1つ年上の童顔の夫人と一緒に夜の街を歩いていたら職務質問を受けたらしい。

実際、見た目だけでは実際の年齢はわからないし、幼く見えるといってその都度写真付きの身分証明書の提示を求めるのはインターネット上の世界では現実的でない。身分証明書を偽造しているのではないかと疑ってしまえばもう正当な判断はできないだろう。特徴をデフォルメした2次元のキャラクターなどは客観的な判断など全くといっていいほど不可能だ。

多くのケースにおいて、児童の性的搾取に関するポリシーに違反したアカウントは即座に永久凍結されます。違反者はさらに、今後新規アカウントを作成することも禁じられます。
違反者に悪意がなかった場合、違反と見なされたツイートの削除を要請し、アカウントを一時的にロックしてツイートできなくさせるという措置をとる場合もあります。

児童の性的搾取に関するポリシー(Twitter)

悪意の有無をどう立証するのか

「違反者に悪意がなかった場合」というのも、いわゆる「悪魔の証明」で難しい問題だ。現代の文明国の法制度の下では、立証責任は訴える側にある

だが、Twitterは裁判の場ではない。ビジネスだ。

Twitter社にとって不利益であれば当然そのコンテンツは削除される。プラットフォームを管理するTwitter社にはその権利がある。これについては後述する。

「妄想」や「入手したいという願望」も制限

Twitter社は法令に触れるような行為だけでなく、「児童の性的搾取について妄想したり、そうした行為を助長する」「児童の性的搾取に該当するコンテンツについて、入手したいという願望を表現する」ことも禁じている。

これは明らかに「内心の自由」を侵害することに繋がる。

それが不法行為だと分かっていても、それを犯す願望を持つことは生きていれば誰にでもある。ただそれを発露することを倫理的に抑圧しているだけだ。

人類がいくら社会的な生き物であるといったところで、ホモ・サピエンスは地球上に存在する動物の一種に過ぎない。内心の自由を侵すことは一種の思想統制だ。そういった懸念は無視できない。

しかしTwitterはビジネスであり削除する権利がある

ここまで「表現の自由」という観点からTwitter社の新しいサイトポリシーについての懸念を述べてきた。表現の自由はどんなことがあっても守られなければならない。文明国であればそれは当然のことだ。

しかし、上述したようにTwitterはビジネスであり、Twitter社にはコンテンツを削除する権利がある

プラットフォームを提供しているTwitter社には、サイト内で行われる行為が自社にとって不利益なものであれば、それを制限する権利がある。

自分の庭を他人に貸して、その庭を自分にとって「好ましくない」もので「荒らされ」たら誰だって「出て行け」と言いたくもなる。そしてそれは当然認められるべきだ。

Twitterは「公共の場所」ではなく、Twitter社の庭に過ぎない のだ。ここに表現の自由を訴える側の誤謬がある。

真に自由であるためには自分の庭を確保すべき

今回の問題は「表現の自由は守られるべきだが他人の庭を荒らしてはいけない」、この一言に尽きる。

自由でありたいなら自分の庭を持って、自分の庭で好きなように表現すればいい。誰にだって移動の自由がある。Twitter社はそれを制限しているわけではない。

表現の自由が奪われ、かつ移動の自由を侵されているのであれば、それは人道的な観点から非難されるべきだ。しかしそうではない。「うちの庭を貸す相手は選びますよ」というのは当然認められる。

自分でレンタルサーバーを借りて個人サイトを運営するなり、自分でサーバーを構築して運営すればいい。インターネット上は現在のところ「自由」である。まあ、検索エンジンの「匙加減」で辿り着けないことはあるだろうが、それはまた別の話。

表現者は、まず「自分の庭」を確保したほうがいい。自分の庭が侵されたのであれば訴えることができるが、他人の庭でいくら叫ぼうとそれは貸主のものだ。

悪法もまた法である。

補遺

本稿は表現の自由と内心の自由について述べたものであり、未成年者に対する犯罪ならびに非人道的な行為を奨励するものではない。「子どもの権利条約」を批准している日本国において、児童の権利を侵し、または抑圧するような行為は一切禁じられなくてはならない。これは蛇足だが、未成年者においても表現の自由は最大限認められるべきであり、それを抑圧する一切の行為もまた禁止されるべきである。

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