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桃太郎の物語に違和感を覚えない人がいることのほうが驚き

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日本は近代の法治国家だ。罪を犯した人がいれば、立法府で定められた法令に基づいて第三者による裁判所が刑罰を決定する。服役なりを経て社会に復帰するというのが当然の流れとなっている。

昔話の「桃太郎」の話はどうだろう。村から収奪を行っていた「鬼」は桃太郎によって退治されたが、それは僕らの現代の価値観に照らし合わせてよいことだろうか。少し書いてみたい。

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鬼とわかり合えることは可能か

タレントの小倉優子さんが2018年3月6日放送の日本テレビ系のバラエティ番組「踊る!さんま御殿!!」のなかで「桃太郎は鬼退治じゃなく話し合ってほしい」という趣旨の発言をしたというニュース。

「なんか、日本の昔話ってそういうことが多くって。桃太郎もね、鬼ヶ島に行くじゃないですか。私は、鬼退治じゃなくて、話し合ってほしいんですよ、鬼と」

(J-CASTニュース「桃太郎は鬼退治じゃなくて話し合ってほしい」 小倉優子のテレビ発言に「鬼なめすぎ」の声も」から引用)

この物語では「鬼」は「人間」とは別の生き物として描かれているけれども、もしかしたら大和民族と先住民だったのかもしれない。そうであるならば(あるいはそうでなかったとしても)「鬼」との共生を図ることが近代のリベラルな価値観なのではないか。

「鬼が悪いことをしたから成敗する」というのは前近代的

村の人にとって、鬼は村を荒らす厄介な生き物だったらしい。現代的に言えばある種の犯罪を犯していたと言い換えられることもできるだろう。だれかが犯罪を犯したときに、現代の常識人がやるのは「裁判を受ける権利」に基づいて法の裁きを受けてもらうことくらいだ。

しかし桃太郎一行は鬼退治に向かった。いろいろなバージョンがあるのでもともとどうだったかはわからないが、鬼ヶ島には方々の国からかすめ取った宝があるという(楠山正雄「桃太郎」青空文庫;『日本の神話と十大昔話』講談社学術文庫所収)。ちなみにこのバージョンでは桃太郎やその周りの人々が被害を受けたという記述がない。桃太郎には鬼を成敗する合理的な理由が存在するのだろうか。

(集団的)自衛権の問題を見る

桃太郎の身内が被害を受けたというのであれば、その犯人を引っ張り出して処罰することも考えられる。現代では禁止されているが弔い合戦のようなものもありうる。しかし、鬼ヶ島というところに方々から収奪をしている鬼の拠点があるというだけでは、個別的自衛権は存在しない。同盟国が被害を受けて、その地域の人とともに交渉にあたって決裂してはじめて集団的自衛権の行使による戦争が正当化される。

事前交渉の記述がない

仮に桃太郎の村が収奪を受けたのであっても、鬼一味と村全体が交渉して共生を図る道がある。しかし桃太郎は鬼退治に行くことで頭がいっぱいだったようで、3匹の家来を従えて鬼退治に向かうのだった。今の枠組みで考えたら完全にテロリスト。あるいは侵略戦争。決して許されるものではない。

盗まれた宝物の行方

果たして桃太郎一行は鬼から奪った宝物の類いをどのように扱ったのだろうか。育ての親と分け合ったとか、村の人に配ったとか、そういったところだろうか。奪われた宝物を元の持ち主のところを回って返したのであればいいのだろうけど、腑に落ちない。これでは鬼から収奪しただけではないか。先に引用した楠山正雄のバージョンではこんなセリフが出てくる。

「どうだ。鬼せいばつはおもしろかったなあ。」

このセリフからは、正当な理由をもって鬼を裁いたということは読み取れない。桃太郎が行ったのは収奪であって、侵略戦争だという読みのほうが、僕には正しく思える。

追記

「ぼくのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」というキャッチコピーに基づいて行われている道徳教育や、物語のほかの解釈については2017年12月25日更新の「クリスマスおめでとう:多様な価値観と道徳観の狭間で」に書いたので、そちらも参照して欲しい。

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プロフィール
悠木貴仁(P.N.)

ブロガー、高校・専門学校・大学非常勤講師(英語)。早稲田大学卒業、上智大学大学院博士前期課程修了。修士(言語学)。

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