男女の二項対立とジェンダーの多様性:参議院選挙を前に考える

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人類(ホモサピエンス)は有性生殖の動物である。

——何を当たり前のことを言っているのかというと、このところ「女性の社会進出を進めよう」とか、「女性議員を半数にしよう」とか、そういうことが議論になっているからだ。

人類は有性生殖の動物なので、生物学的に男性(オス)と女性(メス)がいて、多少の誤差はあれど、おおよそ半々だというところは事実認識として間違っていないだろう。

人は生まれながらにして平等であって、性別や人種、国籍などによって差別することは倫理的に許されない。よって、女性だから(あるいは男性だから)という理由で教育が得られないとか、職種が選べないとか、そういったことは完全に誤りだ。

医学部の入試で男性に下駄を履かせたり、就職活動の面接で「いつ結婚していつ子供を産む予定ですか」などと聞かれたり、逆に保育や看護の現場で男性が不利益を被ったり、育休が取得しづらかったり。こんなことは絶対に許すべきでない。

ただ、少し立ち止まって考えてみると、こういった議論は表面的すぎやしないか。何かムズムズとした違和感を覚えてしまう。「あらゆる差別は倫理的に許されない」と思いながらも、機会的平等が担保される制度を作るには性別・人種・国籍などといった表面的な事柄だけ見ていてはいけないのではないかと感じるのだ。

「男性」「女性」という表面的な二項対立

我々ホモサピエンスは有性生殖の動物なので、男性と女性、基本的には二通りの性がある。子孫を残せるのは女性で、男性は子供をつくることができない。だから狩猟社会のような環境では女性が大切に扱われてきたのだろう、種を根絶やしにしないためにはそうするほかなかった。もし狩りや戦へ行って帰って来なかったらその部族は破滅だ。

社会が変化するにつれて、女性も農作業をしたり工員として働いたりしてきた。現代社会には女性のための高等教育機関もあるし、労働環境も(以前よりは)整備されている。長い抗争の末に女性は参政権も勝ち取った。——しかしこれは肉体的あるいは戸籍上の性別に依拠する差別に過ぎなかったのだ。

混同されるセクシュアリティとジェンダー

有性生殖の動物だからといって、全ての個体が異性愛的(ヘテロセクシュアル)行動を取るわけではない。同性愛的(ホモセクシュアル)行動を取る個体もいる。人類については「ゲイ」「レズビアン」と呼ばれている。他にも「バイセクシュアル」や「トランスジェンダー」、「無性愛」(アセクシュアル)はよく知られているし、性自認が男性でも女性でもない「どっちつかず」のエックスジェンダーという名前もあるそうだ。

ヘテロセクシュアルな現代社会では「性的少数者」(セクシュアルマイノリティ)とされているけれども、セクシュアリティとジェンダーは分けて考えなくてはいけない。前者は生まれ持った性別、後者は社会的・文化的な差異に関するものだからだ。

同性婚を認めるべきかどうかというのはセクシュアリティの問題だし、女性の社会的役割に関するものはジェンダーロールの問題だ。前者はかなりプライベートな問題なので、いわゆるLGBTの人権を否定するようなひとはものすごく残酷な差別主義者だ。他人のプライベートに首を突っ込んで荒らしているということを自覚していただきたい。

「男性性」「女性性」という幻想を見る社会のなかで

社会的な性役割の話に戻ろう。前近代的な社会においては子孫繁栄のために女性を「匿う」必要があったようだ。人権を蔑ろにするようなことも多々あったらしい。

「男は強くあれ」「女性は良妻賢母に」というのはそういった社会の名残だろうか、理想的な男性像・女性像を作り上げてそうなるように教育を施してきた。男の子には戦隊物を見せプラモデルを与え、女の子には人形やぬいぐるみを与える。ある種の洗脳と言ってもいいだろう。人の興味は千差万別なのに年長者がそういったものを求めていて、子供が応えようとする。

子供の頃に人形遊びや料理が好きだった僕は何度となく「女の子に生まれればよかったのにね」という言葉を浴びせられてきた。電車やプラモといった趣味もあったのだけど、男女を意識することなく過ごしていた僕にはそういう区分が全く理解できなかった。

ミニ四駆が好きなクラスの女の子と遊んだりしていたら「あいつら付き合ってる」とか言われて「そういうのじゃないんだけどなぁ」と思いつつ距離を置いたりもあった。一応男性として生を受けたし異性愛者だと自認している(つもりだ)けど、世の中の求める男性性には違和感しかない。ただ、第二次性徴期にヒゲが生えてきたり声が低くなったのは非常にショックだった(中1までソプラノパートで高音が出るのが自慢だっただけに)。

男だとか女だとかそんなのどうでもいいじゃないか。そう思いつつも周りは男子だけ/女子だけで固まりがち。高校時代の部活で先輩が卒業して僕以外全員女子になったときにはもう酷い仕打ちを受けた。——オトコだから入れてもらえない。こういうこともあって女性不信に陥ることになる。小中学校での仕打ちで男性不信にもなっていたので、完全に他人が信じられない人間が出来上がった。

男性的にも女性的にもなれない自分は一体何なのか。学校という社会の縮図のなかでひとりぼっちになりながら(心を開ける数人の友人はいたが)そんなふうに考えていた。

本当はジェンダーにも緩やかなグラデーションがある

そういうのが自分だけじゃないと知ったのは、学部時代に教養科目の少女漫画についての講義を聴講したときのことだった。藤本由香里さんの担当するその講義は人気科目だったので履修はできなかったのだけど、こっそりと後ろの方で聴いていた。

同性愛や性同一性障害は知識として知っていたけど、「トランスジェンダー」やジェンダーの緩やかなグラデーションについて知ったのはこの講義が切っ掛けだ。

男性性と女性性が緩やかに交わる性自認。そのときから、「男らしく」「女性に好まれるように」振る舞わなくてもいいんじゃないかと考えるようになった。それと同時に、見聞きした話を追体験することによって多様な考え方を学ばねばとも思うようになったのだ。

当事者の参加も大事だが想像力の欠如が気になる

長いこと自分語りをしてきたが、女性議員を半数にしようとか当事者を送り込もうとかいう議論が僕の心を打たないのはこういった体験による。

なるほど当事者や専門家が上に立つのは大切なことかもしれない。男女の二項対立や旧来の固定観念で凝り固まった人間よりは代議士として相応しいだろう。しかし人間は想像力を持った動物だ。話を見聞きすることで他者の生を追体験することができる。色々な人の話を聞き、あるいは読み、想像し、考える。そういったことができるはずなのだ。

男性だから、女性だから、社会的弱者だから、(何らかの)被害の当事者だから…。そういったものは上に立つ者の必要条件でも十分条件でもない。それだけでは特定の組織を代表しているひとと変わりない。(無論、見世物にされたり腫れ物扱いを受けたりするかもしれないのに矢面に立つ方々は凄いと思うし尊敬の念を覚える)

固定観念や既成概念に囚われずまっさらな状態で(基本的な素養は持っていてほしいが)話を聞き、想像し、考え、他人に寄り添う。そういったことのできる豊かな想像力を持った人を、僕は選びたい。

——この時代に欠けた想像力を補い、あるいは増幅させる人を。

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