いわゆる情報弱者をターゲットにした「まとめサイト」が問題になっている。読者を広告に誘導することで収益を上げるという仕組みを「最大限に活用」した結果、検索されやすいトピックでキャッチーなタイトルをつけるというスタイルが確立していったということだろう。
Webサイトや他メディアの情報をコピペしているだけのサイトは論外だとしても、そういうスタイルのサイトが読者に受け入れられてきたのは何故なのか、という点から少し考えてみたい。
一次資料に当たるのは時間がかかる
正確な情報を得るにはどうしたら良いかと言うと、識者は「原典に当たりなさい」と言うことだろう。相対性理論について知りたければアインシュタインの著作を読んで理解するのが「一番正確」だし、商品の使い勝手を知りたいのであれば実際に使ってみるのが「一番正確」なのだ。そんなことは誰でも「知って」いる。何かしらの制約でできないから「まとめサイト」のようなものが重宝されるのだ。
一次情報を読む「コスト」
まず、一次情報を正確に読み解くには前提となる知識のほか時間・労力・金銭などの「コスト」がかかる。一般人が世の中の全ての情報にアクセスするのは困難だ。働いていればその時間は情報に触れる時間はないし、一次情報を読み解くのに必要なバックグラウンドがなければ「誤読」の危険すらある。
同じ情報から多種多様な解釈が生まれるのは悪いことではないが、背景知識が共有されていなければ健全な議論が成立しない。
そういう意味で、知識のある人が無用な情報を削ぎ落としてまとめたものを、「教科書」や「番組」、「情報サイト」など各種媒体を通して受け取ることでコストの削減を図るのは合理的だ。短時間で最大限の効果を目指すユーザーにとっては、そういうものが必要になる。
「教科書」も一種の「まとめ」メディア
学校で使われる教科書も一種の「まとめ」メディアと言える。執筆時点で与えられている情報のなかで最も合理的な解釈が採用され、「教科書」として出版されている。
「正しさ」という点から見ると、教科書も万能ではない。新しい事実が発見されればそれまでの解釈は改められなければならないし、そうやって科学は進歩を続けている。
「ネアンデルタールはホモ・サピエンスの出現によって絶滅した」と考えられていたものが、「ネアンデルタールとホモ・サピエンスが交配していた可能性がある」と言われるようになったり、「聖徳太子」の伝説が創作ではないかという話も出ていたりする。
山本博文さんの『こんなに変わった!日本史教科書』や現代教育調査班の『こんなに変わった!小中高・教科書の新常識』など、過去の教科書と現行の教科書との違いをアピールするものが出ているけれども、数年後には(あるいは明日明後日にでも)そこにのっている情報すら過去のものになるかもしれない。
真実は誰にもわからない
教科書に載っているものは、「真実」ではない。ある人が「事実」を寄せ集めて合理的な解釈を与えたものが学術論文などの形で発表され、それらをつなぎ合わせたものが「教科書」になるからだ。何人もの人の目が入るから、ある観点から見ると事実とかけ離れたものになっているようにも思えるだろう。
ある事実があって、それを観測した人の証言や情報がデータとして積み上げられる。人の目が入った時点でその人のバックグラウンドによって多様な解釈が生まれるわけだから、「唯一無二の真実」というのは人の目には見えないと考えられる。
「教科書に載っていない○○の真実」といったタイトルの本がよく店頭に並んでいるけれども、それは教科書の解釈とその本の筆者の解釈が異なるということしか意味しない。「真実」は誰にもわからないものだ。
まとめサイトは「悪」か?
「真実」は誰にもわからないもの。そう考えてみると、<まとめサイト=悪>という図式は(相対的に)成り立たなくなる。まとめサイトだって、その筆者が(足りない)背景知識を振り絞って書いたものだ。事実認定が共有できていないという問題はあるにせよ、その存在自体は悪くない。問題になっている「まとめサイト」というのは、情報を受け取るための一つのツールに過ぎないといえる。
必要なのは「情報の正確性」を客観的に判断する力
「真実は誰にもわからない」。そうやって全てを相対化してしまうと、客観的な「正しさ」というものが存在しなくなる。人は「正しい情報」を与えられれば「正しい判断」をすると言われているけれども、真実というものは目に見えないのだから、常に誤った判断をする危険性と隣り合わせに生きていることになる。
では、どうやって、「より確からしい」判断をしたらいいのだろうか。
妥当性の判断基準を持つ
先述したように、一般人にとって「与えられた情報が正しいかどうか」を判断するのは非常にハードルが高い。大学や専門学校で専攻した分野であっても知識をアップデートし続けない限り正確な判断は難しいものだ。
ただ、基礎的な事柄を知らないと新しい知識を得るときに大きな誤解をしてしまう危険性がある。基本的な知識を幅広く持って、新しい情報をそれと照らし合わせてみて整合性が取れるかどうか考える。そうやって(自分なりの)妥当性の基準のようなものを持つことが大切だ。
信頼できる詳しい人に訊く
その物事に詳しい人に訊くというのも大事なことだ。昔は新聞や雑誌に投書して採用されなければわからなかったかもしれないけれど、インターネットの発達によってそのハードルは下がりつつある。SNSで専門家に訊いてみるのもいいかもしれない。
対価を払う
有料の書籍ですら怪しいことがあるのだから、無料で手に入る情報だけに頼るのは危険だ。もちろん無料の情報でも広告で成り立っているものだとか、趣味でやっているものには有益な情報が含まれているかもしれない。そうはいっても、無料で公開できる範囲というのは限られている。全ての情報を無料で与えなければならないとなると、その人の生活は成り立たない。有益な情報をくれた人にはそれなりのお礼をするようにしよう。
ggrks(ググれカス)とは言えない時代
だいぶマシになってきたとはいえ、検索エンジンの精度というのは執筆時点の2018年になっても低いままだ。「それっぽい検索ワード」を並べて「それっぽい情報」を並べるサイトが検索結果の上位に表示されている。
ネットスラングに「ggrks(ググれカス)」という言葉があるけれども、不十分な背景知識しかない人がインターネットで検索をしても正確な情報に行き着けない時代になっている。1987年4月2日以降に生まれた人は高等学校で情報科の授業を受けたと思うけれども、メディアリテラシーといったものが(これまで以上に)必要な世の中になっている。「インターネットで検索すれば出てくるよ」なんて到底言えない。
メディアリテラシー=自分の頭で考えること
「(自分なりの)妥当性の基準のようなものを持つことが大切」と書いたけれども、情報に触れる際には自分の頭で精一杯考えることが重要になる。時間的金銭的制約もあるかもしれないけれども、自分の頭で精一杯考えて、それに基づいた判断には自分で責任を持たなければいけない。あらゆる情報が交錯するなかで、どれが確かな情報なのか、それを見極める力が試されている。
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